専門書にチャレンジ

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科准教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

広瀬 大介

第36回
歌舞伎や日本音楽に触れたくなる入門書

 大学で勤めていることのもっとも大きな効用は、自分の研究の世界に閉じこもっているだけでは決して出会うことのできない先生方から、さまざまな知見を頂くことができる、という点だろう。筆者の属する学科では、音楽を専門とする専任教員は(自分を含めて)2名だけだが、美術、演劇、映像を専門とする7名の先生方との会話は常に示唆と刺激に富み、この歳になってなお学ぶ幸せを噛みしめることのできる、かけがえのないひとときとなっている。
 とくに、1年生向けの授業では、全員で美術館や劇場に足を運び、芸術が生成するその瞬間に立ち会うことで、自分がこれから勉強していこうとする分野のみならず、他分野に対する理解を同時に深め、あらゆる芸術が相互に結びついていることを実感してもらうことも目的のひとつである。音楽分野ではこれまでバッハ・コレギウム・ジャパンや日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会に足を運び、演奏される作品の奥深さ、一期一会の演奏会に全力で取り組むプロの奏者の姿を目の当たりにして、さまざまなことを考えてもらう機会としてきた。その一方、日本の舞台芸術に触れられる機会としては、国立劇場が学生や初心者向けに開催している、春の歌舞伎鑑賞教室、秋の文楽鑑賞教室に参加するのを専らとしている。比較的親しみやすい演目をメインに据え、その前に若手の演者による歌舞伎や文楽のお約束ごとを解説する入門パートを設け、初心者にも、ある程度親しんでいるひとにも愉しんでもらえるような工夫が随所に施されている。筆者も、決して歌舞伎や文楽に慣れ親しんでいないわけではない(と思う)が、それでもあらためて知ることも多い。学生に戻った気分で学ぶのは、何歳になっても愉しく、心が躍る。

 入門講座では、音楽面についてもきちんと解説される。「音楽」劇たる西洋のオペラではそのオーケストラが一元的に音楽そのものを担うことになる。歌舞伎にとっても音楽は不可欠の存在であるが、その役割は一様ではなく、演目によっても、様式によっても多種多様。門外漢や初学者が歌舞伎の音楽の全貌を掴むのは、決して容易なことではない。
 そのあたりの事情は、今回ご紹介する『歌舞伎の音楽・音』という題名に、端的に表されているとも考えられる。つまり、舞台の進行に必須の「音楽」と、効果音や役者の科白・所作舞台を踏むなどの「音」に分けて論じられているのが、著者が本書で提示した最大の工夫のひとつであり、この区分けによって、断片的に知っていた知識がかなり整理された。
 歌舞伎の音楽には基本的に「囃子」と「浄瑠璃」の二種類がある。「囃子」には、儀礼的な音楽を担当する「陰囃子」(黒御簾音楽・下座音楽)と、舞踏の際の音楽となる「出囃子」(長唄)があり、文楽からの流れを汲む「浄瑠璃」には、劇音楽と舞踏音楽の要素を併せ持つ「竹本」(義太夫節)と、舞踏音楽としての「常磐津節・清元節」(豊後系浄瑠璃)がある。細かな説明は本書に譲るが、豊富な写真と事例の紹介、場合に応じて楽譜や表を用いて体系的にその世界観が一望できるようになっており、これ以上に適切な歌舞伎音楽の入門書は、現在のところ類書がすぐには思い付かない。役者の登場に合わせて舞台上手で鳴らされる「ツケ」ひとつとってみても、その種類が10種類以上列挙されており、熟練と勘が要求される難しい仕事であることが自然と納得できるようになっている。上演の中で用いられている音楽の実例も付されており、その解きほぐし方は著者ならではの明快さに貫かれている。

 歌舞伎に限らず、日本における音楽の歴史を、その流れとともに掴みたい場合は、『よくわかる日本音楽基礎講座 雅楽から民謡まで』が大いに参考になる。中国・朝鮮から渡来した「雅楽」と仏教音楽としての「声明」にはじまり、鎌倉時代に流行した猿楽から室町時代の世阿弥による大成を経た能楽という声を使った音楽の系統、さらには琵琶楽、箏曲、尺八と三味線という器楽の系統の大きな二本柱が存在することが、コンパクトな本書を通読することで自然に頭に入る。
 本書において注目すべきは、むしろ明治以降、西洋音楽が導入されてから楽器の改良や新しい奏法が開発され、それまでにはあり得なかった重奏や合奏といった文化が生まれた、邦楽の新しい発展のかたちが描かれたこと、そして民俗芸能として本土のそればかりではなく、北海道アイヌ、沖縄の音楽が同列に論じられているところにも高い見識を感じる。第2章として、歴史とは別に、「日本の音楽・その特質」と題して、リズムやテンポ、音階、伝承法にまで触れられており、日本音楽を学ぶための教科書として、適切な題材と組み合わせれば大きな効果を挙げられるだろう。

 両者に通じるのは、簡にして要を得たその記述が、入門書にありがちな無味乾燥さに陥ることなく、十分味読に堪えるものであったこと。対象に対する著者の深い理解と情熱が抑えた筆致の行間から立ちのぼり、自然とその音楽に触れたくなるような魅力を伴って読むことができるためだろう。入門書とはかくあるべし、という素晴らしい実例を見た思いがする。

※この記事は2017年7月に掲載致しました。

ご紹介した本
歌舞伎の音楽・音

歌舞伎の音楽・音
配川美加 著

This book is explaining music and sound of KABUKI in detail. 本書を読めば歌舞伎の音楽・音の全体像がつかめ、歌舞伎の観方もさらに深まる! 出囃子(長唄)、陰囃子(黒御簾音楽)、浄瑠璃(竹本、常磐津節、清元節、大薩摩節、河東節、新内節)、三曲(地歌・箏曲・胡弓・尺八)から柝、ツケ、効果音、揚幕の開閉音、役者の演奏、役者のセリフ、化粧声、所作舞台を踏む音に至るまで徹底解説。最後の章では、まとめとして、『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」、『青砥稿花紅彩画』、《京鹿子娘道成寺》、《将門》、《お祭》を例に、音楽・音が実際にどのように組み合わされて舞台効果を高めているかを詳述する。執筆にあたり、演奏者をはじめ歌舞伎の上演に携わる多くのかたがたに取材した。出囃子・陰囃子の錦絵、擬音道具・鳴物の写真、竹本三味線の譜例、陰囃子の主要鳴物曲一覧表など、貴重な資料満載。初心者はもとより、専門家も必携の書。学校関係者にとっては、授業のヒントとなる情報に溢れている。

よくわかる日本音楽基礎講座

よくわかる日本音楽基礎講座
福井昭史 著

雅楽から民謡まで日本音楽の全体像を概観し各種目の歴史や音楽の特色を基本的なことがらに絞って解説、観賞に適した代表的な楽曲の「見どころ」「ききどころ」を紹介。大学における「日本音楽概論」「日本音楽鑑賞論」などのテキストに最適。

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