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広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科准教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

広瀬 大介

第24回 
シェンカー分析は、作曲家の創意工夫をたどる武器

 音楽理論家、ハインリヒ・シェンカーについては、すでに第19回のコラムで多少触れた。シェンカーが提唱した音楽理論については、すくなくともこれまでの日本の音楽教育現場においてはほとんど取り上げられることはなく、その全容を把握している研究者も、まだ多いとは言えないだろう。筆者もシェンカー理論の名前こそ知ってはいたが、きちんと体系として学んだことはなく、その理論を体現する「ウアザッツ」とか「ウアリーニエ」といった単語とその意味するところ、そしてその理論を用いた分析に目を通した程度に過ぎない。
 だが、このたび新しく上梓されたアレン・キャドウォーラダー、デイヴィッド・ガニェという、シェンカーの直系弟子による『調性音楽のシェンカー分析』をひもとくと、現在のアメリカにおける音楽分析のほとんどは、多かれ少なかれ、このシェンカー理論に影響を受けているという。確かにシェンカー理論で用いられるさまざまな分析のための「グラフ」はごく普通に用いられるようになったことをみても、特に英語圏においては急速に市民権を得てきているとは言えそうだ。本書の意義については、著者自身がこのように語ってくれている。

 …シェンカー分析を学生が容易に理解できるように明快な形で提示している。本書はアメリカその他の英語圏で、シェンカー理論へのきわめて音楽的な入門書として広く受け入れられ、多くの音楽人がシェンカー分析を見る目を変えてきた。以前にはシェンカーの思想が十分に理解されなかったため、シェンカー理論は過度に知的な分析方法だと考える音楽家が多かった。しかし『調性音楽のシェンカー分析』は、その明快な構成と説明によって、シェンカー分析が音楽的な関連性を独特な方法で明らかにする方法だということを教えてくれる。
(日本語版の序文、xii頁)

 シェンカーが打ち立てた理論そのものを知るためには、これまでシェンカーそのひとが記した著作にあたるしかなかった。しかし、それとていままで日本語に訳されたものは数少なく、その主著と言うべき『自由作曲法』(Der Freie Satz, Wien, 1935)はいまだ未邦訳。加えて第19回のコラムでも示したとおり、その著作の論調は自らに敵対する陣営に対して過度なまでに攻撃的であり、読み通すのには(内容とは異なる次元で)困難を強いられる点もなしとしない。しかし、そうした論調も、ひととは異なる主張に対しての無理解・攻撃的な批判を乗り越えねばならない、という、当時のシェンカーが置かれていた状況を考えれば、自己弁護のために必要な態度ではあったのだろう。

 シェンカー自身による、多岐にわたる著作の中心となる概念を拾い出し、その核となる理念と分析手法を説いた本書は、第一義的に音楽分析の手法を学ぼうという学生のための教科書であることは論を俟たない。本書の理解のためには、読者に対して要求される前提知識も広範なものとならざるを得ないだろう(実際に訳者は和声法の中級、対位法の初級程度の知識は必要であろう、と述べている)。それでも、一般の読者に向けてこの本が開かれている点は、シェンカーによるこの分析手法が、こうした和声法、対位法といった、音楽を理解するにあたって個々に独立して扱われがちなこの種の手法を統合するものであり、ひとつの作品がどのような構造でできあがっているかを、分析的なミクロの視点だけでなく、鳥瞰的なマクロの視点からも同時に眺めることができる、という点に気付かせてくれることだろう。

 決して簡単な論でないことは十分承知の上で、それでも敢えて第1章・序論を「簡単に」ひもといてみたい。俎上に載せられているのはベートーヴェンのピアノ・ソナタ 作品2-1。アルペジオ和音で上行する冒頭小節の旋律と、それを収める2小節目。属七和音で同じ音型を繰り返す3・4小節目、さらにその後半部分だけを繰り返す5・6小節目。そして、高いC音から音階を降りつつE音へとたどり着く「下降6度」。この「下降6度」こそが、曲全体を形作るパターン、音型となる。仮に「a」と名付けられたこの音型が、その後も手を変え品を変え、あちこちに頻出する。常に同じ形で出てくるわけではなく、11〜16小節目にかけては音域を変えて引き延ばされ、16〜18、18〜20小節目ではよりはっきりとあらわれる。この楽章全体にわたって、この音型がいかに重要な役割を果たしているかは、その後の展開を見れば明らかであろう(以上、同書の譜例1.1〜1.6を参照のこと)。

 楽譜を見ただけでは、あるいは曲を聴いただけではすぐには気付くことがないかもしれないこの種の関連性について理解を深め、「気付き」を与えることこそが、シェンカーに限らず、音楽分析の主目的である。シェンカー理論は、楽典や和声法、対位法と縦割りでしか行い得なかった従来の分析手法を統合し、互いに関連付け、より全体的に理解できるような解釈の可能性を提示したものであった。それが現在のように広範な支持を得られるようになったのは、弟子、孫弟子たちの尽力に因るところ大である。
 そんな弟子たちに大きな力をおよぼしたシェンカーというひとが持っていたであろう魅力は、一連のベートーヴェン、ピアノ・ソナタに関する分析を読むと、その行間から伝わってくるようにも思う。『ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番 op.110 批判校訂版 分析・演奏・文献』においても、そのアプローチは一貫している。「この作曲家が、教本から、あるいは口頭によるてほどきから得た規則として、ソナタ形式を認めたからなどではない。そうではなく、このop.110においても分かるだろうが、作品に内在する必然性が、この形式を、ほかでもないまさにこのような形でいやおうなしに浮かび上がらせたからなのである」(60頁)という考え方があったからこそ、このような包括的な、創作の根源へと遡ろうとするような著作が生まれたのだろう。最終楽章におけるフーガとホモフォニーの融合についても、おそらくベートーヴェンの創作過程をこれほど明瞭に示したのは、この著作が歴史上初めてということになるのではないか。
 最新刊の『ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番 op.111 批判校訂版 分析・演奏・文献』においても、一貫しているのは読者(すなわちこの本の想定読者であったであろう弟子たち)に対して、ひとつの内容を徹底的にわからせようとする厳しくも温かい筆致である。そしてその筆致は、いかにベートーヴェンという存在が偉大であり、類い希なる創造性の持ち主であったかにも及ぶ。すべてのページがその例証といってもよいのだが、ここでは、ベートーヴェンがある特定の意図を持って設定した符尾の連桁を、無思慮な校訂者たちが無視して慣例的な用法で印刷してしまったことへの怒りを表明する箇所を挙げるにとどめておこう(131〜133頁)。

 シェンカー理論、決して「簡単」とは言わないでおこう。前提とする知識なしで100%理解できるものでもない、とも言っておこう。それでも、ひとの心を動かす音楽というものが、どれほどのシステマティックな理論の上にできあがっているか、それを生み出すまでにどれほどの作曲家の創意工夫が凝らされたか、その思考の過程をたどるための「武器」として、いまなおシェンカーの張り巡らせたマクロとミクロを見つめる方法論が有効に機能していることの確かな理由は、これらの本から伝わってくるはずである。

ご紹介した本
調性音楽のシェンカー分析

調性音楽のシェンカー分析
アレン・キャドウォーラダー、デイヴィッド・ガニェ 著/角倉一朗 訳

シェンカー理論は楽曲の分析、とりわけ調性音楽の分析方法として、1960年代から英語圏を中心に、世界的に広く普及している。特にアメリカでは、「シェンカー」と明記されていなくても、楽曲分析はほとんどすべてがシェンカー理論によっていると言われる。シェンカー分析は、楽曲をそのもっとも原初的な構造(ウアザッツ)からの展開として捉えるもので、実際の分析においては、現実の楽譜(前景)から複数の中景を経て、もっとも基本的な後景へと還元していく。本書は教育的な姿勢がさらに強化された2011年の原書第三版にもとづく訳出である。全体は2部に分かれ、第1部では、旋律、和声、対位法の側面からシェンカー分析の基本を説明し、第2部は主要な形式別に実作を分析する。各章末には分析課題が付される。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番 op.110 批判校訂版 分析・演奏・文献

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番 op.110 批判校訂版 分析・演奏・文献
ハインリヒ・シェンカー 著/山田三香、西田紘子、沼口隆 訳

本書は、シェンカーによるベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタ第31番 op.110の批判校訂版、作品理解のための詳細な手引き等からなる。同校訂版は、当時それまでに刊行されていた校訂版と異なり、作曲者と直接かかわりのある資料を参照しつつ、随所で的確な判断を下している。しかも、作曲者の指示と校訂者の解釈が楽譜上で明確に区別されている点で、ビューローやリーマンの実用版とは大きく袂を分かつ。
手引きは、作品の構造に関する注釈や具体的な演奏指南、他の版への批判を含む。判断の根拠や思考の過程を示しながら展開される作品分析は、目前でシェンカーの講義を受けているような印象を読む者に与える。研究者はもちろん、演奏家にとって裨益するところ大と言えよう。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番 op.111 批判校訂版 分析・演奏・文献

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番 op.111 批判校訂版 分析・演奏・文献
ハインリヒ・シェンカー 著/山田三香、西田紘子、沼口隆 訳

本書は、シェンカーによるベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタ第32番 op.111の批判校訂版、作品理解のための詳細な手引き等からなる。
同校訂版は、当時それまでに刊行されていた校訂版と異なり、作曲者と直接かかわりのある資料を参照しつつ、随所で的確な判断を下している。しかも、作曲者の指示と校訂者の解釈が楽譜上で明確に区別されている点で、ビューローやリーマンの実用版とは大きく袂を分かつ。
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