専門書にチャレンジ

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科准教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

広瀬 大介

第16回 
"現代音楽"を分析する両極のアプローチ

 クラシック音楽を日常的に愉しみ、生活の一部としている層であっても、いわゆる「現代音楽」というジャンルで括られる音楽を積極的に愉しんでいる人は、残念ながらまだまだ限られるのだろう。これらの音楽への参入障壁となっている要素は、それこそいくらでも挙げられそうだが、その障壁のおおもとをたどっていくと、源流はおそらく「まだ見ぬ世界への怖れ」へとつながっていくように思う。
 たとえ交響曲やオペラを構成している細かな作曲原理について詳しいことを知らずとも、たとえソナタ形式やレチタティーヴォの構成を知らずとも、20世紀初頭までに作曲された、いわゆるクラシック音楽の中で、聴いたことのない作品に尻込みする人は少ないだろう。それは、音楽という時間芸術が、ある一定の型の中にはめられて作曲されており、起承転結があるという安心感のもと、作品に臨むことができるから、ではなかろうか。
 「現代音楽」はまず、そうした音楽の伝統的な約束事を取り払うところから始めた。調性しかり、リズムしかり、形式しかり。ジョン・ケージの《4分33秒》を挙げるまでもなく、「現代音楽」というジャンルで総称される音楽は、19世紀的な音楽語法に対する過激なまでの挑戦、という側面を持っている。いつ始まって、どのように展開して、いつ終わるのかがわからない音楽。まったく情報を与えられない聴き手の感性は、不安に揺さぶられる。逆説的に言うならば、そして、数多くの例外があることをわきまえつつ大胆に言うならば、「現代音楽」の作曲家は、そんな聴き手の感性を不安で揺さぶるための曲を作っているわけであり、その成立過程からして基本的に聴き手を排除する構造を内に併せ持っている。
 音楽史的に見れば、調性を持ち、機能和声の原則に従い、特定の楽式の枠内で作曲されてきた19世紀の音楽は、20世紀に至ってその限界に達し、やがてその原則を崩すような作品が作られ始める、という歴史的経緯をたどる。無調による音楽は、美術史の用語を借りて「表現主義の音楽」とも称され、シェーンベルクによる12音音楽へと至る過渡期の音楽、といった意味合いにおいて説明されることも多い。それは、シェーンベルクとその弟子たちによる「脱調性」の試みが、無調という通過点を経て、12音音楽というひとつの「理論」として結実したためであり、無調による作品はその種の「理論」がない、または薄弱なものとされてきた。

 そんな無調の音楽も、なんとかして分析の俎上に載せたい、という思いから生まれたのが「ピッチクラス・セット理論」ということになる。多くの無調作品では、あるまとまった音の組み合わせが、時には旋律として、時には和音として、さまざまな使われ方をするものの、あるひとつのモティーフとして機能する。この音の組み合わせをひとつの「セット」と捉え、集合論の考え方を援用して分類すると、なんとこの音の組み合わせは、わずか208種類に還元されるという。この手法を使えば、反行形、鏡像形などのバリエーションも集合論を援用した数式で表現できることになる。数字に置き換えるという発想が12音技法の分析法から影響を受けたことは明瞭であり、複雑きわまりない本書の理論を明解な日本語へと訳された森あかね氏も、そのことはあとがきで認めておられる。
 音楽学者アレン・フォートによって確立されたこの分析手法は、彼の教えを受けた直接の弟子(訳者の森氏もそのおひとり)のみならず、とりわけアメリカにおいて無調音楽を分析する際の手法としてもてはやされた。無調によって書かれた作品の楽譜は、旧来の作品と比べ、その譜面づらを見ただけでは頭の中で音楽を鳴らすことが難しい。その意味で、数字でその構造を「視覚的に」把握しようとしたその発想は大いに共感できる。日本語でこのピッチセット・クラス理論を詳細に説いた本はこれまで存在しなかったことを考えれば、その意義は大きい。今後この本をきっかけとして、この手法を用いた論文が日本語でも数多く発表されるようになるかもしれない。数学の素養に乏しい筆者には、読み通すだけでも骨の折れる作業であったが、それだけでも、無調作品の楽譜がこれまでよりも身近に、音楽を伴って聞こえるようになったように思う。

 だが、とも思うのだ。当然、音の高さを数字に置き換えるという操作、さらにその論を誇張する形で「音楽を数学に還元する」することが、本当にその音楽を知ったことになるのか、という批判は当然起こるだろう。「現代音楽」であればあるほど、つまりわれわれが暮らす現代に近くなればなるほど、それが作曲された音楽のバックグラウンドに関する情報は多くなる。作曲家自身が豊富に遺した言葉が、金科玉条のように演奏家・聴き手を縛ることもあるだろう。たとえ聴き手を選ぶような音楽作品であっても、そこには音楽に込められたメッセージがある。そのメッセージを伝えようと分析する作業は、音楽という生き物を解剖し、その内臓を暴いてみせる外科医のようなものかもしれないが、できればその音楽を生きている状態で活写するカメラマンのようなものでもありたい、とは思い続けている。

 筆者がこのように思うのも、沼野雄司氏がその著書『リゲティ、ベリオ、ブーレーズ 前衛の終焉と現代音楽のゆくえ』で説く、音楽作品が持つ様式的特徴を、作品そのものから語らせるというその手法に、筆者自身が大きな影響を受けたからにほかならない。氏は「現代音楽」を牽引した三人の代表的な作曲家による作品を取り上げ、その作品をして作品を語らしめる。記譜法の変化、反復要素・拍節運動の増加、調性要素と旋律の復帰という3点から、70年代において現代音楽は「切断」され、それ以前とそれ以後、前衛の終わりとその後の音楽という図式をあぶりだす(もっとも「前衛」という言葉の定義は使う人によってさまざまであるため、本書ではその意味するところが厳密に定義されていることを付け加えておかねばならないが)。
 氏の視点は、70年代まで隆盛を極めた「現代音楽」が、ポップカルチャーの台頭と、それに伴う教養主義の没落によって、同じ運命をたどっていった点にも及んでいる。音楽以外の社会的要素によって「現代音楽」が支えられてきた時代が終わりを迎えてしまったからこそ、音楽そのものにもっと真摯な目を向けることで、三者の音楽の魅力にもっと多くの人に気がついてほしい、という思いが、言葉の端々から伝わってくるのだろう。もっとも、その沼野氏にしてから、「おそらく現代音楽は際限のないポピュラー化をはたし、その大部分は他のジャンルにゆっくりと溶け込みながら、安楽死を迎えることになるだろう。」(176ページ)と指摘されていることには、いまの音楽が陥っている袋小路の深さ、暗さを思わずにはいられないのであるが…。

 音楽の分析はまこと難しい。あらゆる人が悩む「音楽を言葉で伝えることの不可能性」を書き手は常に抱えざるを得ず、それゆえに音楽の魅力をより多くの人に伝えるための決まった語法のようなものは当然ない。各々が自らの知識と経験をもとに、新鮮さを失わぬようにさばいてみせねばならない。それが聴き手を選ぶ「現代音楽」ならば、なおさらその手つきは慎重なものでなくてはならないだろう。分析する対象への愛情は同じでも、そのアプローチの仕方は十人十色。今回取り上げた2冊のアプローチはまさに正反対ではあるものの、たどり着こうとする場所は同じはずである。いかにその作業が綱渡り的な慎重さを要し、そしてそれに成功しているか、同じような文章を書こうとして挫折し続けている筆者がここでくどくどと強調しても、決してバチはあたるまい。

ご紹介した本
無調音楽の構造 ピッチクラス・セットの基本的な概念とその考察

無調音楽の構造 
ピッチクラス・セットの基本的な概念とその考察

アレン・フォート 著/森あかね 訳

音高を整数に割り当て、音楽への集合論の適用を容易にすることにより、無調音楽における新たな音高の組み合わせを、従来の和音という概念ではなく、セット(集合)として認識し分析することを可能にしたピッチクラス・セット理論。それは本書によって確立された!本書出版ののち、無調音楽に関する論文のほとんどが、この理論を用いて書かれている。

HOME
JASRAC
JASRAC許諾番号:
9013065002Y38029
JASRAC
JASRAC許諾番号:
S1009152267