専門書にチャレンジ

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科准教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

広瀬 大介

第8回
西洋音楽史とは、感性と研究の成果により編まれた「物語」である

 この書評欄、回を重ねるごとにどんどん長くなってしまい、お読みいただいている方には大変申し訳ないことである。お詫びを申し上げたい。文字数の制限がないウェブでの原稿では、逆に言いたいことの焦点を絞るべきであることは十分に認識しているつもりだが、やはり、ついいろいろと説明したくなってしまうのは、筆者のサーヴィス精神過多のせいなのだろうか。

 大抵、教師という仕事をしている人間は、往々にしてこのサーヴィス精神に、思わぬところでスイッチが入る。授業中、しゃっちょこばって話していた教師が突然リラックスした様子で、そしてうれしそうに「余談ですが・・・」とか、「関係ないかもしれませんが・・・」などと言い始めたら、その電源のスイッチが入った証拠。話は、本来の授業のプログラムからは大きく外れはじめ、全く関係のない地平へとたどり着くことも。教師とは、時間の許す限り(時には許さなくても)、自分の知っていることをとにかく喋ってしまいたいと思う人種なのである。

 普通の音楽大学、あるいは一般大学で音楽を専攻する学生には、その基礎科目として「西洋音楽史」という授業を取ることが義務づけられている。もう少し補うならば、ヨーロッパ諸国におけるクラシック音楽の歴史、とするべきか。
もはや筆者が言うまでもないことだろうが、唯一無二の客観的な、事実を紡いだだけの「歴史」教科書などというものは存在しない。かつて地球上で起きた出来事すべてを客観的に知り得る人間など存在しない以上、その個々の出来事を網羅的に叙述することなど、はじめから不可能なのである。であれば、一つの「歴史」を編む際には、必ずそこに編者の取捨選択が生じる(中韓を巻き込んだ、昨今の歴史教科書問題を一例としてあげれば十分だろう)。長い時間をかけ、その地域で生まれ育った文化が如何にして変容したか、あるいは如何にしてその根っこの部分が変わらずに残っているか。西洋音楽史とは、それを選び出す編者の感性と研究の成果が様々に盛り込まれた「物語」でもある。

 大学で西洋音楽史を教える教師たちは、曲がりなりにもそんな「物語」を、学生たちのために何とかひねり出さねばならない。一般の方の認識とは逆かもしれないが、教師にとって、自身の得意とする高度な専門領域を事細かに教えるよりも、西洋音楽史のような基礎的な授業を多くの学生に向かって行うほうが、よほどプレッシャーなのである。そもそも、古代ギリシャの(ほとんど実態のわかっていない)音楽に始まり、中世、ルネサンス、バロックを経て、誰もが知る古典派、ロマン派、そして20世紀から現代音楽へという音楽のすべてに精通している生き字引のような教師などほとんど存在しないわけで、普通はひとそれぞれに得意分野と苦手な分野を抱えている。網羅的に各時代の音楽を知り、特徴を知り、重要性を知り、それを人に伝えるまでに成熟させるには、かなりの手間暇と、それなりの歳月と人生経験を必要とする。一個の人物のうちで様々な事実がふるいにかけられ、大小様々な石や砂が落ち、最後に残った原石の輝きが、万人を納得させるに足る歴史の「物語」として、鈍い、しかし含蓄に富んだ光を発するのである。

 結局前置きが長くなってしまった。「音楽史」と銘打たれた本は、大抵、こうした教育現場における実際的な要請、つまり「音楽史のためのよい教科書がほしい」という切実な願望から生まれていることがほとんどであり、そのために編まれた「物語」は各人各様である。『決定版 はじめての音楽史』(著:久保田慶一、他)は、それぞれの時代を担当する専門の著者による、まさに「教科書」であり「通史」である。高校を卒業したばかりの大学生がはじめて手に取る音楽史の教科書、というスタンスで、必要な情報がコンパクトに、まるで美しい折り詰め弁当のように過不足なく詰められている。この本は、教職課程を視野に入れた学生のため、日本の音楽通史にも触れられているのが、類書にない特徴であろう。
これに対し、『新名曲が語る音楽史』(著:田村和紀夫)は、一人の著者によって最初から最後まで書かれている。単なる通史ではない。こちらも同様に大学の学生を読者に想定し、その興味をかき立てるため、学生が面白いと思うであろう(そして著者自身も面白いと感じているであろう)音楽史のトピックが取捨されている。著者の専門・好みからか、古典派・ロマン派で選ばれたトピックは、そのすべてがドイツ系作曲家に偏っているが、これは後述の『音楽史17の視座』の続編という扱いの故だろうか。楽曲そのものの内容について、決して平易とは言い難いアナリーゼを伴いながら、そのアナリーゼがきちんと一つの読み物として、閉じた「物語」として成立し得ているのは、著者の卓越した力量と経験の賜に他ならない。モーツァルト《フィガロの結婚》第3幕第5場の六重唱曲が、ソナタ形式で作曲されていることの意義と効果について論じた章などは、オペラにおける内容と形式の一致が、アルバン・ベルクだけでなく、多くの作曲家にとっても同様に、時代の枠を超えた問題であったことを示唆している。
 『音楽史17の視座』(著:田村和紀夫、鳴海史生)は、「古代ギリシャから現代まで」というサブタイトルが示すとおり、さらに大きな範囲で音楽史をとらえている。もちろん、各時代ごとのトピックを深く掘り下げる読み物が多くを占めるのだが、注目すべきは、第四部「音楽史の原理」に収められた、五線譜、器楽、調性について、その成立過程を視野に入れた論考であろう。一つのシステムが完成に至るまでを大づかみに説明すると同時に、それが抱える問題を歴史的に考察することによって、単なる「音楽史」の本からは決して見えてこない視点が浮かび上がってくる。

このほかにも、音楽史を扱った良書は山とある。いまや日本語で読めるようになった『グラウト/パリスカ 新 西洋音楽史』(上巻)。堂々たる通史でありながら、細かなコラムによってその理解を助ける記述もあり、教科書としても、レファレンス本としても、あるいは純粋な読み物としても、どのようなアプローチにも耐えうる永遠の名著であろう。英語による原著は現在も改訂が続けられており、最新の研究成果と音楽の潮流を叙述に反映すべく、常にアップ・トゥ・デートを繰り返している。いずれ日本語版も、増刷される際にこの改訂が反映されるとよいのだが。
本当は前回のピアノ教育論で取り上げるはずだったのだが、筆者のわがままで今回にまわしてしまった『新版ピアノの歴史』(著:大宮眞琴)。現代ピアノの前身となるクラヴィコードに始まり、数々の鍵盤楽器の機構とメカニズム、それを駆使した作曲家の小伝と作品紹介、細かなエピソードなど、叙述内容は多岐にわたるにもかかわらず、こなれた文章のおかげか、全く雑多な印象を与えない。著者が長年にわたって積み重ねてきた鍵盤楽器への知見を、それを全く知らない人のために書き下ろそう、という視点で書かれているためだろう。中国史で言う編年体(年代順に書かれる歴史書の体裁)、紀伝体(個々の事象について触れる歴史書の体裁)の記述が、時と場合に応じてバランスよく取り入れられていることも、その理由の一つかもしれない。

ここまで縷々、西洋音楽史を知るための教科書や読み物について述べてきたが、他の芸術史や哲学・思想史と異なり、音楽史を勉強するにあたってもっともやっかいな点は、こうした教科書をひもとくだけでは、その勉強が完結しない点にある。とにかく、何らかの形で、ここに収められた曲の数々を聴いてみないことには、その実態は全くといっていいほど藪の中のまま。もちろん、インターネット上に溢れる有料・無料の音源のおかげで、かつてよりは、はるかに未知の音源に接するためのハードルは下がっている。だが、著作権という、高く険しいハードルがあることは百も承知の上で、この種の本には、CD、あるいはウェブ上でのダウンロードキーなど、何らかの形での音源を添付していただきたいと願わずにはいられない。大学やカルチャーセンターの講義において、この種の音源を直接耳にできる、というアドヴァンテージは、何物にも代え難いものがあり、同時にそれは自習者の最大のハードルでもあるのだから。

ご紹介した本
はじめての音楽史 増補改訂版 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで

決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで
久保田慶一、他 著

それぞれの分野で活躍めざましい執筆陣が各章を担当した、音楽史入門書のベストセラー。最新の研究成果を平易な文章に盛りこんだ。高校・大学、音大受験生のテキストとして、また音楽史に興味をもった一般の読者にも最適な内容。西洋音楽史・日本音楽史・日本の現代の音楽の3部構成で、古代から20世紀までを網羅し、とりわけ第2次世界大戦以後の音楽史に多くの紙面を割いていることが大きな特徴。今回の増補改訂版では中世・ルネサンスの内容を、近年の研究を反映させ一新し、現代の音楽についても2008年までの動向・研究成果をふまえ、大幅に加筆・訂正をした。

新 名曲が語る音楽史

新 名曲が語る音楽史
田村和紀夫 著

好評の『名曲が語る音楽史』の改訂版。第二部 バロックの第1章 感情表現としての音楽が新たに書き下ろされ、第五部 現代の内容が一新した。前者では通奏低音の発生が考察され、第2章の拍子論と組み合わされて、バロック理解のための構成が整えられた。後者の第1章 新しい響きを求めてでは、19世紀ロマン派から次の時代への移行期に何が起きたのかが包括的かつ具体的に論じられる。

グラウト/パリスカ 新西洋音楽史(上)
グラウト/パリスカ 新西洋音楽史(中)
グラウト/パリスカ 新西洋音楽史(下)
グラウト、パリスカ 著/戸口幸策、津上英輔、寺西基之 訳

西洋音楽の伝統を概観した『西洋音楽史』の新訂第5版。本文が2色刷りとなり、さらに明快で率直な表現に書き改められ、今日的に一新された。

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