エチオピアの楽師、吟遊詩人を追って―音楽を職能に生きる者たち―

川瀬 慈(かわせ・いつし)
1977年岐阜県生まれ。映像人類学者。国立民族学博物館/総合研究大学院大学准教授。
エチオピアの楽師、吟遊詩人の人類学研究、民族誌映画制作に取り組む。同時に人類学、シネマ、アートの交差点から創造的な叙述と語りを探求する。代表的な映像作品に『ラリベロッチ』『僕らの時代は』『精霊の馬』『Room 11, Ethiopia Hotel』(イタリア・サルデーニャ国際民族誌映画祭にて「最も革新的な映画賞」受賞)。共編著に『アフリカン・ポップス!——文化人類学からみる魅惑の音楽世界』(明石書店)、『フィールド映像術』(古今書院)、近著『ストリートの精霊たち』(世界思想社)が第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞を受賞。

川瀬慈

第3回
古都ゴンダール、王女が眺めた場所

 ここで少しズームアウトする。アズマリたちの活動の舞台である街ゴンダールについて駆け足で紹介することにしよう。エチオピアにおいてフィールドワークを始めたばかりのころ、音楽集団の調査を行うにふさわしい土地がどこなのか、首都アジスアベバで出会う人々にかたっぱしからたずねた。するとみな口をそろえて、ゴンダールへ向かうよう僕に助言をくれた。“ゴンダールでは伝統音楽の楽師が多く活動している”、 “王に仕えた楽師の末裔がいる”、“エチオピア北部のアムハラ音楽のルーツはゴンダールにある(事実かどうかはさておき、現地で幅広く共有される言説)”、ということが理由のようだ。とりあえずそれらの言葉を信じ、アコースティックギターと与謝蕪村の句集を道連れに、僕は長距離バスに乗って、雄大なエチオピア高原を旅した。雨季の名残を残すアムハラ州をウォロ、ゴッジャム地方の順に抜け、少しずつ目的地のゴンダールに近づいて行った。サトウキビをかじりながら、途中、気の赴く場所で休憩をとり、アズマリに出会うことを想い、僕の胸は高鳴っていった。

映像:旅の途中。蕪村の句を牧童たちと詠む。

 しかしながら、すべてがスムーズにいくわけではない。現地語はまだほとんどわからず、誰を信用してよいかわからない。金をだましとられたり、バスのなかでノミやダニにやられ皮膚は化膿し、ゆく先々で血気盛んな自称“ツアーガイド”たちとトラブルを重ね、心身ともにボロボロの状態でゴンダールに到着した。雨季が終わり北部の高原地帯は金色に輝くテフ(エチオピアの主食インジェラの原料になる穀物)がひろがり、穂を風に揺らしながら、収穫期を持っていた。ゴンダールは拙著『ストリートの精霊たち』で描いたとおり、個性的な人々がストリートに息づく都市で、やはり各地で聞いたとおり弦楽器マシンコを奏でるアズマリたちが街の酒場や、結婚式をはじめとする祝祭儀礼等の場で盛んに活動を行っていた。
 首都から740キロほど北方に位置するゴンダールは、青ナイルの源タナ湖の北に位置する都市だ。エチオピアで最初に首都に定められた場所である。ゴンダールはファシラダス王によって築かれた。ゴンダールが首都であった時代(1632-1855年)の前半はエチオピア史上、正式にはソロモン朝ゴンダール期(1632-1769)と呼ばれる。この時代は、外国人の侵入を遮断した中央集権的な封建社会で、エチオピア正教会による王の戴冠が続いた。そのあとに続く「諸公侯時代」(1769-1855年)は、各地に諸侯が群雄割拠し、ゴンダールは徐々に衰退していく。1889年にメネリク2世によってアジス・アベバへ遷都されてから、州の設置にともなう新たな地方行政制度が導入され、ゴンダールはアムハラ州の州都となる。しかしゴンダール時代に実現した政治力を徐々に失う。200年以上にわたり政治と経済の中心地であったゴンダールにおいては建築、音楽、文学が、パトロンである王侯貴族のもと繁栄したことでも知られている。この時代のはなやかな名残は、現在も街のいたるところに見受けられる。現在でも1979年にユネスコ世界文化遺産に登録されたファシラダス王宮群をはじめ、ファシラダス浴場、クスクアム王宮群、その他代々の王が建てた遺跡の一群が現存している。また、市内各地の教会壁画は当時の職能画家たちの豊かな表現の世界を物語る。

 王宮群を囲む城壁  王宮群を囲む城壁2

 今日、ゴンダールは、エチオピアの人々にとっては、いわば古都のイメージをもたれる街で、エチオピア屈指の観光地でもある。街の中心には、ファシル城がそびえたつ。ゴンダールを都に定めた王ファシラダスが築いた城である。ゴンダール時代の栄華を示す遺跡群のなかでも、この城はその荘厳な見栄えといい、大きさといい、きわだっている。ゴンダール時代には、石づくりの城壁内に、生肉、蜂蜜酒がふんだんにふるまわれる晩さん会が開催され、そこにアズマリたちが招かれ、王侯貴族を褒めたたえる歌を歌ったという。詳しいことは後述するが、王侯貴族お抱えの楽師が存在し、それらの楽師の中には、パトロンである王を褒めたたえるのみならず、政策に対して助言をしたり、儀礼的に揶揄したりすることを許される者もいたといわれる。それら、王侯貴族お抱えの楽師は軍人が持つような冠位を有し、土地を与えられることもあった。アズマリは、パトロンを褒めたりけなしたり、権力に従属し、時には反抗し、エチオピアの長い歴史の中でしたたかに生きてきた。


 城壁のそばの野菜売り

 どっしりとした石造りの遺跡や城のなかにたたずむと石の壁から人々の歓声やアズマリたちの掛け声、歌声が聞こえてくるような錯覚を覚える。これら、見た目が立派なゴンダール時代の石造りの遺跡群のように、ゴンダール人は、プライドが高く、頑固なイメージを持たれやすい。武士は食わねど高楊枝、ということわざがあるが、あの世界に近いかもしれない。要するにつらいこと、困難なことがあっても、やせがまんし、見栄を張り、プライドを保つ人々といったイメージだろうか。
 ところで、お城といえば、ゴンダール時代に、城のバルコニーから、エンコイェと呼ばれる王女が、街をよくぼーっと眺めていたのだという。彼女の名にちなんで名づけられたエリアがある。王女が好んで眺めた場所という意味を持つエンコイェメスクだ。ファシル城の横を走る道をまたいだら、すぐに広がるエリアである。


 エンコイェメスクの路地

 王女が眺めていたといったら聞こえが良いし、ファシル城を中心とする荘厳な遺跡群の足元に広がるエリアなので、「城下町」とでも呼びたいところである。しかしながらここはゴンダールの多くの市民が普段よりつくことを避ける風紀の悪い場所でもある。市内の低所得者が集住するエリアで、土づくりを基本とする長屋が連なる。かつて1930年代後半の、イタリアによる統治時代は一種の赤線地帯とされ、その後もながらく、性売買がさかんなエリアとされた。タラ(イネ科の穀物ソルガムやテフの醸造酒)、アラケ(様々な穀物からつくる蒸留酒)などの地酒を出す安酒場が密集していることでも知られる。市民にとってのこのエリアのイメージは、売春、安酒場、賭博、といったところだ。エンコイェメスクに行った、とゴンダールの人に伝えようものなら、なになに、安い地酒でも飲みにいったのか? タラ一杯程度の値段のシャラムタ(アムハラ語で“娼婦”を意味する侮蔑語)に会いに行ったのか? と返されるだろう。


 地酒のタラを飲む農夫たち

 しかし、ここはアズマリが集住するエリアでもある。付近の村々からやってきたアズマリが土でできた長屋の部屋を間借りしながら20世帯ほど、身を寄せ合うように暮らしていた。市内の中心に位置するこのエリアは、アズマリにとっては街中の様々な演奏場所へ容易に赴くことができて便利である。さらに、街から街へ、村から街へと、演奏機会を求めて移動する機会が多いアズマリ達にとって、お手頃な間借り宿が多いというのは都合がよい。人々は路地に出て食材を洗ったり、顔を洗ったり、幼児にはこの細い小道で排泄すらさせる。そのため晴れた日でも、エンコイェメスクはぬかるんでいる。土の壁と、トタン屋根、洞穴のような狭く薄暗い部屋が並んでいた。市に属するコンクリート製の共同トイレはその機能をはたしておらず、悲惨な状況であった。
 はれてゴンダールに到着し、市内の各地で演奏を繰り広げるアズマリに出会ったものの、かんじんのフィールドワークはなかなかうまくいかなかった。夜に酒場で出会ったアズマリたちをたずねて彼ら、彼女たちが住むエンコイェメスクにせっせと通い、集団に近づこうと試みたのはよいのだが、アウトサイダーである僕に対してみな白々しい反応をとり、警戒心を抱き、なかなか腹を割って話してくれなかった。
 エンコイェメスクの路地では、様々な人間模様が繰り広げられている。アズマリの家に行きつくまでがたいへんだ。外国人の僕が歩いていると、酒場の女たちが、きゃあきゃあ冷やかし、こっちでコーヒーでも飲んでいきなさい、と声をかけてくる。昼間から飲む酔っ払いたちがちょっかいを出してくる。これらの声を軽くあしらいながら、さらに奥に行く。すると必ず、めんどうくさい輩たちが待っている。その筆頭が、エンコイェメスクの元締め、グルマだ。彼に定職があるかどうかはわからない。何かトラブルがあると彼がシュマグリ(相談役)ということで、みな彼のもとに集い議論を行うのだ。僕が歩いていると、僕の腕をぐいとつかみひっぱり、お前はシャラムタでも買いにきたのか、とからかってくる。馬鹿野郎違うよ、とおぼえたてのおぼつかないアムハラ語で返すと、僕の反応をおもしろがり、アムハラ語でもっとおもしろいことを話せとせがんでくる。押しの強い、おせっかいなグルマには辟易したが、なぜか憎めない。みなの相談を受ける、恰幅のいいおやじ。その後、何度か彼が仕切る会議とやらに僕も出席することになる。相談役といっても、誰の意見も聞かず、自分の意見を一方的にたたみかけ、自らの発言に陶酔するかの如く、わめきたてるだけである。その姿がおかしく、何度笑いをこらえたことだろうか。彼には、シサイという名の弟がいた。チンピラやコソ泥のたまり場であるエンコイェメスクのなかにおいても札付きの伝説のワルだった。ある日、ポリスから拳銃を奪い取り、エンコイェメスクに逃げこんだのはいいが、ポリス達に追い詰められ、全身を射撃され、息絶えたという。
 危ない危ない、エンコイェメスクのことを書き始めたら、連載の主旨を忘れ、どんどん脱線していきそうだ。

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