『バイエルの謎』その後〜無自覚な音楽史

安田 寛(やすだ・ひろし)
1948年、山口県生まれ。国立音楽大学声楽科卒、同大学院修士課程で音楽美学を専攻。山口芸術短期大学助教授、弘前大学教育学部教授を経て、2001年より奈良教育大学教育学部教授。19世紀、20世紀の環太平洋地域の音楽文化の変遷について研究中。著書に、『唱歌と十字架』(音楽之友社、1993)、『日韓唱歌の源流』(音楽之友社、1999)、『原典による近代唱歌集成』(編集代表、CD30巻+楽譜+資料、ビクターエンタテイメント、2000)、『唱歌という奇跡 十二の物語』(文藝春秋、2003)、『日本の唱歌と太平洋の讃美歌──唱歌誕生はなぜ奇跡だったのか』(奈良教育大学ブックレット第2号、2008)、『バイエルの謎』(音楽之友社、2012)などがある。2001年に第27回放送文化基金賞番組部門個別分野「音響効果賞」、2005年に第35回日本童謡賞特別賞を受賞。奈良市在住。


安田 寛

小野 亮祐(おの・りょうすけ)
広島大学大学院博士課程修了。DAAD奨学生としてライプツィヒ大学音楽学専攻に留学。18世紀ドイツのベスト・ロングセラー教本『レーラインの鍵盤楽器教本』をめぐる博士論文により学位取得。2011年より北海道教育大学釧路校准教授。

小野 亮祐

第7回
バイエルとミュラーのピアノ教則本

◆「番外曲のルーツ」
 バイエルの中に、普段見過ごされている番号のついていない指の訓練用の短い音型がある。前回と前々回の連載で、これを「番外曲」と呼んでそのルーツを探ってきた。
 日本では意外に知られていないが、ドイツピアノ教則本史上最大のベストセラー・ロングセラーと言えば、18世紀の後半から19世紀前半まで出版され続けたレーラインのピアノ教則本であった。彼の教則本は彼の死後も改訂出版され、1806年、奇しくもバイエルが誕生した年に刊行された第6版を改訂したのは、ミュラーという音楽家であった。
 ミュラーによるレーラインの第6版には、いかにも「ハノン然」とした反復を基本原理とした練習用音形の数々が現れる。われわれが突き止めた限りでは、これこそがバイエルの「番外曲」のルーツと見なしうる最も古いものである。
 この音型はそれまでのレーラインの教則本にはなかったものである。これが間違いなく「番外曲」のルーツであるなら、短い単純な音型による反復練習によってピアノを弾く基礎を作るという考えが登場したのは、1850年に刊行された『バイエル』からさかのぼることたかだか50年であったことになる。

◆ミュラーと日本との関係

 日本人にとって面白いことは、ミュラーのピアノ教則本は、日本に入って来た最も早いものの一つであった。ボストンで買い付けられ、音楽取調掛に納入されたバイエルを含む楽譜群のなかに「ミュルレル、ユーブングスチュック(lnstructive uebung stucke fur das pianoforte von A. E. Muller)」がある。目録には「ミュルレル、ユーブングスチュック」について「バイアル氏教科書ニ次グベキモノ、手形練習」と注記されている。この「手形練習」とは、まさに「番外曲」に他ならない。そして、「バイアル氏教科書ニ次グベキモノ」というのは、バイエルの次に重要なもの、あるいは、バイエルが終った後に使うもの、という意味であろう。この考えは、音楽取調掛のピアノ教育をサポートしたボストンのニユーイングランド音楽院のピアノ教授エメリーの考えであったろう。
 そこで、今回は、ミュラーの「練習音型」とバイエルの「番外曲」とを比べることを中心に、バイエルとミュラーの教則本を比べることで、これまでの「静かな手」と「番外曲」の話をまとめることにしたい。

 さて、その前に、もう1度、ミュラーが改訂したレーラインの第6版ではじめて出てくる とバイエルの「番外曲」との関係を確認しておこう。

◆レーラインの第6版とバイエルの「番外曲」
 改めてバイエルの冒頭の番外曲を仔細に見てみると、各練習の配列は無作為になされたものではなく、ある系統性をもって配列されている事がわかる。例えば、冒頭番外曲の右手の練習を見ると、順次進行の指使いの練習となっているが、1番は2度、2番は3度の上行順次進行、3番は第2番の逆、第4番は4度の上行順次進行、第5番は第4番の逆と言った具合である。
譜例【バイエル冒頭番外曲 第1〜5番】

 一方レーラインの鍵盤楽器教本第6版の練習第1番を見ると、1小節目は四分音符によるゆっくりとした2度の順次進行、第2小節目は八分音符による少し早い2度の順次進行、第3小節は3度の上下順次進行、第4小節は4度、第5小節は5度、という具合である。
譜例【レーラインの教則本第6版 第1番】

 『バイエル』のほうが上行と下行と分けてあることで進め方が丁寧になっているが、同じような系統性をもって練習を配列している点では両者類似している。
 冒頭番外曲の脚注には、「発展編(Weiter Stoff)」として巻末付録(Anhang)があることを明記されている。そこには以下の様な練習が掲載されている。それをレーラインのものと比べてみる。
譜例【レーライン第6版より】

譜例【バイエル教則本 巻末付録I 第24番】

 両者を見比べてみると、バイエルの巻末付録はレーライン鍵盤楽器教本第6版のものと酷似している。
 バイエルの冒頭と巻末付録の番外曲に焦点を当ててきたが、番号曲中の番外曲にも着目してみよう。50番と51番の間にある番外曲は7回繰り返す反復性と動機的な姿をしていることから、レーライン鍵盤楽器教本第6版に始まる番外曲と同じものであるのは明らかである。
譜例【バイエル教則本 50番と51番の間にある番外曲】

 これまで見てきた当時の鍵盤楽器教則本(ピアノ教則本)の常識から『バイエル』を見れば以下のように見ることが出来まいか。18世紀以来の古式ゆかしき教則本の伝統と、当時流行の練習としてのレーラインの鍵盤楽器教本第6版のような練習が、まさに『バイエルを』教則本としての屋台骨を形成しながら、お楽しみ番号曲がその合間を埋めてゆく、そんな姿に当時の人には見えたのではないかと考えられるのである。この見方は、ミュラーのピアノ教則本とバイエルを比べることで、より鮮明になる。

◆ミュラーのピアノ教則本の構成

 ミュラーのピアノ教則本には刊行年が記載されていない。当時のドイツの音楽新聞の1816年5月22日号に紹介記事があるので、その頃に刊行されたものであろう。ミュラーの教則本の構成は、6つの部分から成っており、それを章と呼ぶなら、それぞれの章は、指の予備練習と練習した技術を応用した楽曲という2節から成っている。
 ミュラーが全体を通して注意を払っているのは、右手と左手とを均等に発達させることである。予備練習では、右手の練習の次は、右手と左手の声部を交代させて、必ず同じ練習を左手でするようになっている。

譜例【ミュラーの教則本にある最初の予備練習】

 バイエルも右手と左手とを均等に発達させることに意を注いでいるが、右手と左手の声部の機械的な交代だけでなく、両手で同じ旋律を弾くことを多用し、また飽きさせないために、左手に伴奏の役目を負わせることも多い。

◆動機の変奏という考え

 予備練習の特徴は、まず基本となる動機を提示し、それを右手と左手で交互に変奏することで進むというところにある。
譜例【ミュラーのピアノ教則本第2章の予備練習】


 この動機とその変奏によって指の訓練をするという思想は、バイエルの第1部でそっくり受け継がれている。バイエルの第1部が動機とその変奏で出来ていることに気づいたときは、正直、少々驚いたのであるが、この動機とその変奏という考えは、19世紀前半のドイツのピアノ教則本を支える屋台骨であったらしい。

◆ミュラーの「番外曲」

 ミュラーの第1章の表題は、「両手を均等に使う練習のための24の短い曲」となっている。すでに述べたように、右手と左手の声部を交代させて、必ず同じ練習を石手と左手とで交互にするようになっている。この24の短い曲がバイエルの番外曲に相等している。その特徴の第1は、ハノンと同様に音型を2度ずつ規則的に移動する指の訓練である。

譜例【ミュラーの教則本にある最初の予備練習】

 バイエルは、この連載の第5回で述べたように、冒頭番外曲の注意書きで、「これらの練習は教師の手引きにより初めはソラで弾くこと」と述べているので、初めはソラで弾き、慣れてくると鍵盤のラシとかファソとかいろんなところで弾くことを想定していた。つまり、ミュラーの最初の予備練習と同じようなことを想定していた。

◆進度は?

 その他、バイエルと比べて気づくことは、8分音符、重音、同音での替指、手の拡張(6度、オクターブ)、指を替える、指をくぐらせる(スケール)が早く出てくることである。 8分音符は、No.3で登場する。

譜例【ミュラーの教則本にある最初の予備練習第3番】

 バイエルは、44番ではじめて出てくる。重音は早くもNo.9で出てくる。

譜例【ミュラーの教則本にある最初の予備練習第9番】

 バイエルで重音がはじめて出てくるのは、65番と66番の間にある番外曲である。

◆指の交差

 初心者の進度の最初の大きなステツプは、指の交差である。例えば親指を中指の下にくぐらせる、逆に中指で親指をまたぐことである。つまり、静かな手を終るときである。ピアノ奏法の典形であるスケールを滑らかに弾くというのは、まずもってこの指の交差をスムーズにおこなうことで、スケールの練習とは、この訓練である。ミュラーでは、No.21で指の交差が出てきて、No.23で早くもスケールが登場する。

譜例【ミュラーの教則本にある最初の予備練習第21番と第23番】


 バイエルでは、『バイエルの謎』で詳しく書いたように、第65番の前に置かれた番外曲ではじめて指の交差とスケールが出てきて、これが分岐点となり、第1部と第2部とに分かれる。

◆初心者のための教則本?

 ミュラーの教則本のタイトルには、「最も初心者のために」と書かれている。しかし、見てきたようにミュラーでは、第1章の予備練習で、バイエルの65番までに相等する練習のステップがすべて出てくる。バイエルの進度に比べて相当に早い。
 1冊の中での進度も早い。第1章の予備練習の後の応用楽曲は、すでにバイエルの第2部に相等する難易度の曲である。左手の動きは、バイエルの第2部よりも少し難しくなっている。

譜例【ミュラーの教則本第1章の予備練習後の応用楽曲】

 第3章の応用楽曲は、ブルクミュラーかやさしいソナチネ程度の曲である。

譜例【ミュラーの教則本第3章の応用楽曲】

 最終章第6章の応用楽曲は、すでにソナタ程度である。

譜例【ミュラーの教則本第6章の応用楽曲】

 最後に注目したいことは、ミュラーの第2章の応用楽曲は、わざわざ「静かな手(Mit stillstehender Hand)」と断ってあり、しかも第6変奏までの変奏曲である。バイエルの第1部はミュラーのこの部分を取り出し、拡張したものと見ることが可能である。ただミュラーの静かな手は、厳密ではなく、すでに指の交代や6度音程までの手の拡張を含んでいる。

譜例【ミュラーの教則本第章の応用楽曲変奏1と変奏2】


 ミュラーのピアノ教則本は、長々とした説明文もなく、前の時代のものに比べると随分シンプルな教則本である。初歩からソナタを弾けるまでの練習がそろっていて、最初の指の動かし方から、重音、オクターヴ、スケールといったピアノの練習の仕方と程度による配列という進度のシステムが確立していることが分かる。

◆ミュラーから見たバイエルの特微

 そのミュラーと比べることでバイエルの特徴について改めて次のように整理できる。
 バイエルは、ミュラーの第1章と第2章に相等する教則本である。ミュラーの第2章の最初の静かな手による応用楽曲に相等するものを第1部とし、動機とその変奏によって展開するという思想をそのまま受け継いでいる。バイエルの第2部は、ミュラーの第1部の応用楽曲に相等している。そして、バイエルは、ミュラーの第1章と第2章の予備練習に相等するものを、やさしくして番外曲として、応用楽曲の間に挿入するという構成に組み直した。
 さらに、進度については、指の交差とスケールに入る前の静かな手にたっぷり時間をかけて進度を相等ゆっくりした。
 これらは、『バイエルの謎』でもだいたい明らかにしたことであるが、ミュラーと比べることで歴史的位置付けがおおよそ見えてくる。それは取りも直さず、バイエルの独創性を見ることになる。上に述べたミュラーと比較することで明らかになったバイエルの特徴は、そのままバイエルの新しさであり、それは、専門のピアノ教師につける前に、母親がまず手ほどきをする、というコンセプトから生まれたものだったのである。
 バイエルはピアノ初心者にとって至宝となり、フランス語、英語、ロシア語に訳されてヨーロッパ中で大歓迎され、ショット社のドル箱となった。
 ワーグナーの総譜を出版するようなリスクをショット社がおかすことができたのは、『バイエル』やバイエルの編曲もので大きな利益をあげていたからである。ショット社内には、他の作曲家と並んでバイエルの肖像が掲げてあるが、玄関ホールを飾る胸像はワーグナーのそれである。こういうところに、当時の音楽史におけるバイエルの立ち位置が現れているのだが、次回からはそうしたバイエルの人物像に迫ってみたい。


ご紹介した本
バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本

バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本
安田寛 著

世界的ベストセラーとして、出版されてから160年間ロングセラーを続けているバイエル・ピアノ教本。挫折した人も音大に進んだ人も、子どもの頃から慣れ親しんだ教則本だが、90年代から「バイエルを使っているのは日本だけ」等、バイエルのピアノ教則本としての信頼性が取りざたされるようになった。いきなり悪者になってしまったバイエル。しかし、いまだにピアノや音楽を超えて、教則本・入門・初歩・基礎・幼児・初学者・楽しく学べる・効果がある・自習できるといった意味を伴って使われ続けているのだ。バイエル(教則本)は、ひろく一般読者に訴える日本の文化の一つともいえる。ドイツにわたり、作者バイエル本人を探しドキュメンタリータッチで書かれた世界でも初めてのバイエル研究。


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