21世紀のふるさとの歌を訪ねて

島添貴美子(しまぞえ・きみこ)
富山大学芸術文化学部准教授。
研究分野:民族音楽学(日本の民謡・民俗芸能)。
共著:『エイサー360度』(沖縄全島エイサーまつり実行委員会、1998年;沖縄タイムス出版文化賞受賞)、『民謡から見た世界音楽』(ミネルヴァ書房、2012 年)など。
放送:NHKラジオ第二の番組「音で訪ねる ニッポン時空旅」に出演、解説を担当。同番組は「NHKに残された日本各地の祭りや民謡の貴重な録音を堀り起こし、 音からイメージできる“ニッポンの暮らし”を語り合う」。2015年4月に放送開始、現在もレギュラー番組として放送中。

島添貴美子

第10回
美しい物語――ラッパ節・炭坑節・十九の春の伝播論その1

■民謡の伝播論

 町田佳聲の「民謡源流考」に出てくる追分やハイヤ・おけさの伝播のように、どんなに注意深い実証に裏付けられた伝播論であっても、伝播のルートは可能性の一つにすぎない。
 それでも、民謡の伝播論が魅力的なのは、遠く離れた空間に点として分布する歌と歌を、線として結びつける際に作られる物語(仮説)にあるのだろう、と思う。伝播のルートが分かりやすく、伝わる理由がもっともらしいほど、歌のもつ力に魅入られてしまう。
 ここでは、明治の流行歌はやりうた「ラッパ節」の伝播の中でも、九州地方の炭鉱への伝播と奄美・沖縄への伝播を取り上げ、その物語を追ってみよう。

■ラッパ節と炭坑節

 ラッパ節とは、明治から昭和にかけて活躍した演歌師添田蝉坊ぜんぼうが作り、明治後期以降、爆発的に全国に広がった流行歌はやりうたである。とはいえ、ラッパ節のフシ自体は、唖蝉坊のオリジナルではなく、陸軍軍楽隊の指導者シャルル・ルルー作曲の「抜刀隊の歌」(明治十八年頃1)からの借用といわれる(古茂田、島田、矢沢、横沢1994:37-38、西沢1990:2500)。ラッパ節は、抜刀隊の歌の数多ある替え歌の一つ2である。
 唖蝉坊のラッパ節は、明治三十八年頃に歌い始められた当時こそ、「わたしゃよっぽどあわて者 がまぐち拾ふて喜んで 家へ帰ってよく見たら 馬車にひかれたひき蛙 トコトットット」(添田1982:123)という具合に滑稽な歌詞を織り交ぜた演歌であったが、ラッパ節の大流行とともに多くの替え歌3が作られた。唖蝉坊自身も、当時の演歌らしい社会風刺を込めた「社会党ラッパ節」(添田1982:132)などの替え歌を作っている。
 ラッパ節は、演歌師やレコードなどによって全国で流行し、各地に根付いていった。その一つが炭坑である。『日本民謡大観 九州篇(北部)』の記事「筑豊の炭坑とそこで謡われた唄」によると、ラッパ節は、大正はじめに新ラッパ節となって、筑豊(福岡県)の炭坑で選炭節になったと推測している(日本放送協会編1977:67)。
 選炭節とは炭坑における選炭作業の際に歌われた歌である。

 さて、こうして先山が掘った石炭を、後山が坑外へ運び出すと、今度はそれを選炭婦と呼ばれる、年頃の娘たちが石炭に混じる石炭以外の岩石ボタを除く。この作業は大きな金網に枠をつけ、それを斜めにたてかけた万石と呼ばれるふるいの大型のものに掘りだしたままの原炭を流し、これをゆすりながら選炭していった。そのためこの仕事場は一日中炭塵がたちこめているので、娘たちは石炭の粉から肌を守るために厚化粧をして仕事に出てきた。それだけに選炭婦は炭坑の花でもあった。(中略)
 そうした選炭婦たちが単調な作業にあきるので口ずさんできたのが選炭節である。その選炭節、詞型は七五調四句の今様形式で、歌詞の内容は炭坑の仕事の様子が手にとるようによくわかる面白いものが多い。というのも、炭坑の唄にはこれといった定まった歌詞はなく、見えるもの、周囲の情況、更には経営者や監督の悪口と、なんでもこの詞型にあてはめて即興で作って謡っていたため、沢山の歌詞が生まれ、仲間の共感を得たものだけが謡いつがれてきたようである。(日本放送協会編1977:66)

 この選炭節が、筑豊地方の炭鉱の一つ三井田川鉱業所伊田坑近くの後藤寺町の花柳界に伝わって座敷歌「炭坑節」となり、さらに炭鉱住宅の盆踊歌となる。

 筑豊炭坑のお盆は一ヵ月遅れの八月であった。盆が近づくと一ヵ月ほど前から青年団が中心となって踊りの稽古を始める一方、幹部は十三日、十四日、十五日の三日間に、その炭坑に所属している炭坑住宅の中で、新盆の家を書きだし、その廻る順路と日程を決めた。いよいよ当日は午後三時頃になると、青年や娘たちはそれぞれ赤穂浪士討入りのような衣装を着込み、ぞろぞろ新盆の家の前へ集まると、前の広場の大きさに応じて一重、二重時には三重の輪を作り、その輪の中に音頭取りと伴奏者を立たせ、二十分間ほど供養踊りを披露した。この時演じられる曲は、まずはじめが何故か鶴崎踊り4で、つづいて鈴木主水の口説、そして終りが炭坑節であったという。(中略)
 こうして踊り終れば次の新盆の家である。帰りしな、遺族はいくらかの供養料を包んで、青年団の幹部に手渡した。ところで当時の新盆の家であるが、なにしろ保安設備は略すだけ略してただ増産を図ってきた炭坑では、落盤その他の事故で新盆の家は多く、ましてガス爆発でもあった年は大量の死者を出すため、三日間では廻りきれないほどだったという。そうした時には一軒あたりの踊り時間を半分以上にちぢめざるをえなかったと。(日本放送協会編1977:68)

 『日本民謡大観』の解説では、「月が出た出た月が出た」で始まる有名な炭坑節の歌詞は、もとは唖蝉坊の「奈良丸くずし」(大正元年頃)の歌詞「月が出た出た月が出た セメント会社の上へ出た 東京にゃ煙突が多いから さぞやお月さま煙たかろ」の改作であるという。筑豊地方の炭鉱で、「月が出た出た月が出た 三井炭坑の上に出た あんまり煙突が高いので さぞやお月さま煙たかろ」と歌われた炭坑節は、炭坑夫たちによって、三池炭鉱(福岡県大牟田市)に伝わり、歌詞の「三井炭坑」は「三池炭鉱」に変わる。(日本放送協会編1977:71)
 そして、戦後の昭和二十一年八月二十二日より始まったNHKラジオ「炭坑へ送る夕」で、三池炭鉱に駐屯していたアメリカ兵たちが片言の日本語で歌った炭坑節が放送されたことをきっかけに、炭坑節は全国に広がった。(日本放送協会編1977:68)

■ラッパ節から十九の春へ

 仲宗根幸市が「与論小唄雑考」で描いた奄美・沖縄地方へのラッパ節の伝播は、ラッパ節の炭鉱への伝播のもう一つの物語である。
 時は明治三十一年八月、奄美群島の与論島は、台風による未曽有の被害、旱魃や悪疫の流行で、島の人々は食物にも困窮し、生き地獄と化していた。島を救うためには集団移住しかないと判断し、本土への集団移住が進められた。移住先の一つが、長崎県の口之津であった。口之津は当時、前述の三池炭鉱で採掘された石炭を沖積みする場所で、与論島の人々は沖積みの仕事に従事することになった。(仲宗根1998:211-212)

 ところが、石炭運搬の仕事に従事してみると、労働条件は劣悪で大人の男性の賃金が本土労働者の半分であった。働けど一向に借金の減らない与論の人たちの不満は高まり、加えて生活風俗の異なる与論の人たちへの“人種的偏見”と差別はすごかったという。かれらは与論長屋にかたまって住んでおり「ヨーロン」とバカにされていた。改善されぬ労働条件、会社への不信、ヤマトゥンチュ5の差別への苦悩、希望を見出し得ぬいらだち、なんのために島を捨てて長崎までやってきたのか、出るのは愚痴と溜息ばかりであった。
 そのとき、かれらを慰めたのは、はやり唄の「ラッパ節」だったのである。かれらは与論三線にのせてラッパ節を歌い、互いに慰め、生きる勇気を与えられた。いわば、与論の人たちの最大の友はなんと「ラッパ節」という、はやり唄だったのだ。(仲宗根1998:212)

 口之津への集団移住から十年後の明治四十二年、三池港の整備により、三池港から直接、石炭の船積みができるようになると、与論島からの移住者たちは、帰島する者、三池炭鉱のある大牟田へ移住する者、口之津に残る者の三つに分かれたという。与論島、沖永良部島、徳之島出身者千百二十六人のうち、大牟田(三池炭鉱)への移住者四百二十八人(与州奥都城会編1966:27、森崎、川西1996:61)、口之津残留者希望者七十三人(森崎、川西1996:61)で、残り六百二十五人のうち多くの与論人が帰島した。

 娯楽の少ない戦前のこと、歌あそび(「ヤユー」と称す、男女の夜遊び)が若者にとって何よりもの娯楽であり、その歌あそびの場は社交の場でもあることから、恋愛結婚へと発展するケースも多かったようだ。歌あそびでは、島の民謡とともに、必ずこのはやり唄の「与論ラッパ節」「与論小唄」も登場し、互いの思いをその唄に託したのである。(仲宗根1998:214)

 炭鉱で歌われたラッパ節は、「与論ラッパ節」「与論小唄」として与論島で大流行し、次第に、フシも変化しながら与論島に定着していった。(仲宗根1998:214)
 「与論ラッパ節」「与論小唄」となったラッパ節は、さらに沖縄へ南下し、歓楽街で「ジュリグヮー小唄」となり、レコード吹き込みにあたって「十九の春」と命名される6

 「十九の春」は戦争中けっこう兵隊さんもうたっていました。兵隊がうたっていた唄の出だしを二つ覚えてます。一つは「一銭五厘の葉書さえ」で始まる唄ともう一つは「校長死んだとて誰も泣かぬ」という唄です。僕がレコード屋始めたのは六九年か七〇年くらいでしょ、「十九の春」をレコードにしたのはたぶん、復帰後ですよ。近くの本竹裕助が刺繍屋やってたんです。夜は津波恒徳のところで民謡ショーに出ていて、津波恒徳というのはご存じ ママ通り、与論とつながりがあるんです、いったりきたりして。僕がその唄うたったら、裕助が与那国にもあるんだと言う。嘉手苅さん7に聞いたら「ジュリグヮー小唄」じゃないかって言っていました。あれはもとをただせば添田唖蝉坊で、「ラッパ節」が源流だと思うんです。福岡の炭鉱に与論の人たちがいっぱいいまして、彼らが福岡から帰ってきて、唄覚えてきて、「与論ラッパ節」になって、それから「与論小唄」になった。「与論小唄」と「十九の春」ってそっくりでしょ。全国にあったはずなんですよ、あの唄は。ああいう唄っていうのは昔の演歌そのものさ。似るのがあたり前なんです。いまの新作演歌聴いても区別つかないでしょ。同じようにいっぱい作ったと思うんです、ああいう歌を。それを、普久原楽器店のスタジオがまだ中の町にあった頃に録音したんです、裕助で。相方が津波恒徳の娘の津波洋子。マルフクレコードに持ち込んでシングル化したんです。そのときはただ「ジュリグヮー小唄」じゃなんだしなというので、本竹の唄い出しが「私があなたに惚れたのは」ということで、じゃあタイトル、「十九の春」にしようとなった。もちろん、戦前「十九の春」という唄があるのは知ってましたよ、映画主題歌で8。(備瀬1998:99)9

 さらに、この「十九の春」を田端義夫が一九七五年にレコードで出して大ヒットさせ、沖縄まで南下したラッパ節は、「十九の春」となって再び本土へ帰ることになる。

■ラッパ節の伝播は複雑

 ラッパ節の奄美・沖縄への伝播は、厳しい炭鉱での労働に耐える与論人の心情を描き、沖縄まで南下したラッパ節が再び本土へ帰るという物語である。伝播論としては非常に美しいのだが、この伝播論を描いた仲宗根自身、ラッパ節の奄美・沖縄への伝播のルートが複雑であることにも気づいている。

 番組終了後、早速ラジオを聞いた方々から極東放送や提起者の筆者へ電話が寄せられた。「戦前から八重山でも歌われ、戦後も流行していた」とか「奄美の人が与那国や西表で広めた」との具体的教示も賜った。また、沖縄本島北部の離島からは「戦前紡績へ行った人も習い覚えている。私も大阪へ出稼ぎに行き、あちらで覚えた」との声もあり、今帰仁村の人からは「終戦直後、今帰仁でも与論や奄美の人が歌っているのを耳にした」と。さらに「コザの吉原(歓楽街)でも『吉原小唄』として歌われていた」というふうに、「十九の春」はレコードの出る以前から、同一系譜の歌が沖縄の各地で歌われていたのである。(仲宗根1998:218-219)

 これだけでも、ラッパ節がいろいろなルートで沖縄へ入ってきていることが推測される。おそらく、古くは演歌師の活躍によって伝わり、その後はレコードやラジオといったメディアがラッパ節の伝播に大きく関係していると思われる。


  1. 1 明治・大正期の歌は歌われ始めた年代が文献によって異なることがあるため、『新版日本流行歌史 上』を参照し、文献によって異なるものは「頃」を付けた。
  2. 2 小島美子の「[解説]音楽史からみた唖蝉坊」によると、抜刀隊の歌の一部をつないで作られた「ノルマントン号沈没の歌」を経由して、演歌「小川少尉の唄(あゝ夢の世や)」、「あゝ金の世」やわらべ歌「一番始めは一の宮」、「一かけ二かけて三かけて」などが作られたという(小島1982:395-396)。
  3. 3 佐藤天外の「なさるぶし」(西沢1990:2224-2226)など
  4. 4 大分市鶴崎に伝わる盆踊り。
  5. 5 南西諸島で使われる表現で、日本本土の出身者を指す。「大和の人」という意味。
  6. 6 仲宗根によると、奄美から沖縄への人の行き来はいくつかあったようである。
  7. 「与論ラッパ節」や「与論小唄」は、沖縄本島北部今帰仁村やコザ(現沖縄市)の吉原の歓楽街で、「吉原小唄」として歌われていたとの報告もある。北部の今帰仁村には運天港があり、奄美出身者の沖縄上陸の一つのコース(その他には、安謝港コース、平安座、屋慶名コースがある)であった。奄美の人たちは運天港に上陸すると、字仲宗根に宿泊して那覇へ上って行ったという。その際、与論小唄を流布している形跡が具体的にあった。(仲宗根1998:215-216)
  8. 7 沖縄の民謡歌手嘉手苅林昌(一九二〇-一九九九)のこと。
  9. 8 昭和八年頃に、西條八十作詞、江口夜詩作曲の「十九の春」という歌がある。こちらの歌は、コロムビアが松竹とタイアップした美人コンテストの優勝者ミス・コロムビアが覆面歌手として歌った。(古茂田、島田、矢沢、横沢編1994:289-290)
  10. 9 沖縄の音楽プロデューサー備瀬善勝(通称、ビセカツ)へのインタビュー記事。

[参考文献]

  • 小島美子1982「[解説]音楽史からみた唖蝉坊」添田知道『流行歌明治大正史』東京:刀水書房、389-403頁(添田唖蝉坊・知道著作集別巻)
  • 古茂田信男、島田芳文、矢沢寛、横沢千秋1994『新版日本流行歌史 上1868-1927』東京:社会思想社
  • 添田知道1982『演歌の明治大正史』東京:刀水書房(添田唖蝉坊・知道著作集4)
  • 仲宗根幸市1998『「しまうた」を追いかけて』那覇:ボーダーインク
  • 西沢爽1990『日本近代歌謡史 下』東京:桜楓社
  • 日本放送協会編1977『日本民謡大観 九州篇(北部)』東京:日本放送出版協会
  • 備瀬善勝1998「ビセカツ一代記」、DeMusik Inter.編『音の力 沖縄「コザ沸騰編」』東京:インパクト出版会、87-108頁
  • 森崎和江、川西到1996『与論島を出た民の歴史』福岡:葦書房
  • 与州奥都城会編1966『三池移住五十年の歩み』大牟田:与州奥都城会

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