21世紀のふるさとの歌を訪ねて

島添貴美子(しまぞえ・きみこ)
富山大学芸術文化学部准教授。
研究分野:民族音楽学(日本の民謡・民俗芸能)。
共著:『エイサー360度』(沖縄全島エイサーまつり実行委員会、1998年;沖縄 タイムス出版文化賞受賞)、『民謡から見た世界音楽』(ミネルヴァ書房、2012 年)など。
放送:NHKラジオ第二の番組「音で訪ねる ニッポン時空旅」に出演、解説を担当。同番組は「NHKに残された日本各地の祭りや民謡の貴重な録音を堀り起こし、 音からイメージできる“ニッポンの暮らし”を語り合う」。2015年4月に放送開始、現在もレギュラー番組として放送中。

島添貴美子
新着記事

第3回
最期に立ち会う

 祭(祀)りや芸能が新しく始まる、というときは新聞やテレビで報道されるなど注目されやすいし、それが復活する、というときも注目されやすい。しかし、徐々に徐々にすたれていき、ある日ひっそりと終わる祭(祀)りや芸能の最期はどんなものなのか。ここでは、私が実際に立ち会ったある芸能の最期の話をしたい。

■世紀末的な調査の依頼

 民謡や民俗芸能の研究に携わっていると、時々、市町村の教育委員会などから調査を依頼されることがある。私が最初に依頼された調査は、埼玉県戸田市の民俗芸能の調査だった。それまでも依頼されて調査はしたことがあったが、あくまで先輩たちのお手伝いである。なので、これが一人前デビューの記念すべき調査となった。
 ところが、この記念すべきデビュー調査が、今でもなかなかない内容の依頼だった。先方は、「市指定の無形民俗文化財の民俗芸能がこの度、続けられなくなったので保存会を解散したいと申し出があり解散しました。そこで最後に記録を取りたいのですが…」という。文化財に指定したいので調査を依頼したいということはあっても、解散したから記録を取りたいという依頼は、後にも先にもこれが初めてである。時は、平成十一(一九九九)年、調査の依頼主は埼玉県戸田市教育委員会で、調査対象は埼玉県戸田市にい新田しんでん地区に伝わるかんのんぎょうという芸能である。世紀末にきた、なんとも世紀末的な内容の調査依頼である。
 以下、戸田市教育委員会発行の調査報告書『新曽新田観音経』と私の手元にある資料をもとに、新田地区に伝わる観音経という芸能の最期に立ち会った時のことを振り返る。すでに二十年も経っているので記憶が曖昧な部分もあるし、資料を読み返して改めて気が付いた部分もある。それに、その当時は調査方針をたて、同意や協力を取り付け、期限内に調査し、記録し、調査報告書を作成することに必死だった(らしい)。その証拠に、本章のテーマである最期に立ち会うということについての当時の私の思いや考えが書かれたものが、資料を掘り返しても出てこない。それでも、最期に立ち会ったという思いは、今でも強烈に私の記憶の中に残っている。

■新曽新田と観音経

 埼玉県戸田市新曽は江戸時代に新曽村だったのが、明治二十二年に周辺の村と合併して戸田村となり、現在は戸田市となっている、もとは農村だったところだ。しかし、戦後の高度経済成長期に田畑が売られて工場や倉庫が立ち並び、さらに昭和六十年に埼京線が開通して戸田駅ができると駅周辺を中心に開発が進み、新曽は一変する。
 観音経は、この辺りでは、太鼓に合わせて観音経というお経を唱える芸能である。古い記録では江戸の天保時代にはすでにあったようで、大正時代ごろまで新曽のみならず、戸田市内全域で行われていたらしい。しかし、調査報告書が出版された平成十三年当時、観音経が行われていたのは、すでに、新曽の下町と氷川町のみとなっていた。
 新曽の新田地区では、観音経は明治十七年頃に始まったようで、宗教活動というよりは、ほら(=共同体)の人々が集まる機会を作ることで結束を高めようということで始まったのではないかという。人がいたころは農家の長男だけが学校を卒業すると観音経に参加できた。しかも、参加できるのは一軒につき一人だけで、親子で参加することはない。調査に協力いただいた新田地区のお爺様三人の話によると、お爺様方が参加したのは十代の半ばくらいからである。どうやら観音経は若者の芸能だったらしい。
 その痕跡は、お爺様方が実際にやって見せてくれるのを目の当たりにして分かった。新田地区の観音経は、お経を唱えながらものすごい勢いで大小二種類の太鼓をたたき、お経の途中から、大太鼓のバチを三本に増やし、お手玉のように放り投げ…というもので、最盛期の時代には、大太鼓同士がバチを投げ渡す「きょくち」(言ってみれば、二人ジャグリング)をする人が大勢いたという。お経=しめやか、というものではない。
 お経という地味さと、太鼓のバチをジャグリングするという派手さを併せもつ新田地区の観音経は、お爺様方がいうように、長男(=家の跡取り)という選ばれし者が参加できる誇りであるとともに、楽しみであったのも分かるような気がする。
 新田地区では観音経の最盛期は戦前までで、観音経を楽しみにしていたのは、昭和四十年代くらいまでだという。調査報告書をみると、新田地区での観音経を行う母体である観音講は古くからある三十二軒の家の者で構成され、このうちの二十軒ほどが宿を持ち回りにして、毎月十七日と二十三日の夜に観音経を行っていた。会費は、月二銭だったが、基本的には宿が負担して、赤飯やお菓子を用意するほか、正月と月見の時の宿にあたると料理の負担は大変だった。しかし、地主も小作人も一緒に寄り合い、農事について情報交換をしながら共食する重要な場だった。しかし、昭和四十年頃になると、宿の負担が大きいということで、抜ける家が出てくるとともに、農事組合としてのまとまりだけが残り、観音経に対する興味が薄れてきたので、昭和四十八年に保存会を作り、宿を公民館に移した。しかし、平成五年頃には新人がいなくなり、平成八年頃から解散の声が出始め、平成十年五月に保存会の解散が決定した。同年八月二十日に解散式、同年十月二十八日に戸田市無形民俗文化財の指定解除となった。

■板ばさみ

 それから約五か月後の平成十一年三月三十一日に、私は新田地区の公民館で、三人のお爺様にお会いすることになる。約一年半の調査の始まりである。
 お爺様たちは教育委員会の方の説明を聞きながら困惑していた(と思う)。戸田市教育委員会は新田地区の観音経の文化財指定解除に伴い、予算を計上して記録を取ることにしていた。記録の内容は、調査報告書と記録映像の作成である。
 問題は、記録映像の撮影だった。記録なので観音経の演奏は必須なのだが、お爺様方は口々に「無理だ」という。「年を取って手が動かない。ほれ(と、手を前に出す)。これじゃ、バチを投げられない。こんな醜い姿をビデオにとられたくない」、「お経を忘れていて、最後までできない」、そう言うお爺様方の困った顔は今でも記憶に残っている。
 観音経はせんだつというお経を読むリーダーに、締太鼓二人、鋲打ちの大太鼓二人が伴奏して、残りのみんなで観音経を唱える芸能である。太鼓をたたく人たちはお経を唱えながらたたくのだが、それでもこの芸能をやるには最低四人は必要である。さらに、太鼓をたたく人はお経の本を見ずにお経を唱えながら太鼓をたたくので、お経を暗記しておく必要がある。
 しかし、観音経ができるお爺様はすでに三人しかいなかったし、みなお経を最後まで本を見ずに唱えることはできなくなっていた。それに、年をとって手が思うように動かなくてバチを上手に投げる(ジャグリング)こともできなくなっていた。そんな醜態を永遠に残るビデオにとられたくない、というお爺様方の言うことはもっともなことだった。対する教育委員会は「すでに、予算に入っているんです」の一点張りである。緊張した空気が漂い始める(と、当時の私は感じていた)。
 お爺様方と教育委員会の間に挟まった私は、正直なところ、お爺様方に同情していた。しかし、教育委員会がそれで譲歩するようにも見えない。さあ、困った。どうしよう。

■観音経の醍醐味

 芸能の、というより音楽のフィールドワークで重視されるのが、当該の芸能(音楽)の演奏法を学ぶことである。実際に、演奏の仕方を学び、自分で演奏してみることで、ただ聞いているよりもその芸能(音楽)に対する理解が格段にあがる(と思う)。芸能(音楽)のフィールドワーカーがフィールドワークをやめられないのは、これがあるからだとさえ思ってしまう(少なくとも、私はそうである)。加えて、今回はお爺様方の心の中ではすでに終わっているであろう観音経を、お爺様方の協力で再現し、そして記録映像を撮ろうという企てがある。
 そのために必要なのは、お爺様方と私との間に信頼関係を築くことだと、当時の私は思った。お爺様方からみれば、私は教育委員会からの回し者である。実際に、教育委員会からの依頼で(まさに、回されて)お爺様方の前にいる。とはいえ、回し者だからといって、お爺様方に無理強いはさせたくない。
 そこで、私がまずやったことは、観音経を習得することだった。繰り返しになるが、観音経はものすごい勢いで太鼓をたたきながらお経を唱える。調査報告書の作成に当たって、その太鼓の連打を五線譜に採譜しなければならない。音符にするだけなら、録音を聴く時にデジタル処理で音高を変えずにスピードだけを遅くして、それで太鼓の連打の一つ一つを音符にとっていけばよく、実際にそうして音符を拾った。しかし、さらに音楽としての構造を抽出するには、観音経という芸能を自分でやってみるのが早道であるように思えた。
 最初のインタビューで、観音経をどのように習ったか話をしてくれたのは、三人のお爺様のうち、昭和一桁生まれの二人のお爺様だった。
 観音経は『説法の段』と『ねんの段』の二つの部分からなる1。お経は一字一拍のリズムであるが、お経の区切りの頭に、タマをつけて、その部分を大きく(強く)唱え、あとは一息で唱える。このタマはお経と太鼓で共通しており、観音経特有のリズムが生まれていると思われる。
 太鼓は締太鼓のツケと、鋲打ち太鼓のオオドがある。まず習うのはツケだという。ツケの奏法は特にキザミとタマが重要であるという。キザミはたたいたバチの返りを生かして細かく連打する奏法で、お爺様によると、たたく人の性格やその日の体調が表れるという。タマは、バチを打ってあげてから打ち下ろす「トントロツク」でたたくタマと、バチを斜めにあるいはまっすぐにおろしながらキザミをいれる「トロツク」でたたくタマがある。どのタマでどちらを使うかは決まっている。
 ツケもオオドも二つ一組で演奏される。特にツケは二人の奏者がぴったりと合っているのがよいとされ、互いに相手の手の動きを見ながら息を合わせてたたいていくという。
 ツケとお経は一緒に覚える。二人のお爺様が習った頃は、まず「一本バチ」から習ったという。一本バチはタマの部分を取り出した稽古法で、お経を唱えながら片手でタマの部分をたたく。初心者は、鉄管や丸太の前に並んで座り、向かい側に教える人が互い違いに座って、教える人のたたくのを見ながら真似ていく。お爺様曰く「ツケのリズムでお経が自然と覚えていける」という。お経の本はあるものの、「本を見ながら唱えているとみんなに遅れてしまい、遅れてしまうと次のお経が出てこなくなる」ので、お経は暗記しなければならない。実際に、お爺様方に実演してもらって分かったことだが、お経はツケのリズムで記憶され、ツケのリズムはお経で記憶されている。連動して記憶されているので、片方だけを再現することはできない。
 稽古は農閑期の十二月から三月にかけて、毎晩二時間ほど集まって行われていた。しかし、当然、それだけでは覚えられないので、個々人でも練習する。「便器をたたいて稽古をしていたら、便器が割れた」、「しょうゆ樽をツケの代わりに家で練習する。お互いに意地がありますからね」、「風呂炊きをしながら、お経を唱え、ツケのリズムを刻んでいた」と若き頃のお爺様方の青春がうかがえる。
 お爺様方へのインタビューに加えて、実際に「一つバチ」を実演してもらう。私はそれを録音して、家に持ち帰ると楽譜に落とす。そして、実際にお経を唱えながら一つバチを繰り返し練習する。ニジムジニボサ ソクジュウザキ ヘンダウケン ガッショウコウブツ…二十年経った今でも冒頭の一節だけは一つバチでたたいて唱えられる。というより、一つバチでリズムを取らないと、お経が出てこないのだ。体で覚えるというのはこういうことなのだろうと思う。
 そして、次にお爺様方にお会いした時に、独学「一つバチ」をやってみせた。とたんに、お爺様方の顔がパッと明るくなった(と当時の私は思った)。そして、一緒に「一つバチ」をたたいて私に教えてくれたのだった。面白いことに、少しでもできるようになると、演奏の仕方についての細かな質問ができるようになり、どのような記録映像をつくるかのアイデアが浮かんでくるようになった。
 その次の調査では、オオドの話を聞いた。話の終わりに、お爺様の一人が言った。「今夜は食べずにきてください。食べることが供養になるから。」

■最期の日

 保存会の記録では「平成十年八月二十日 最後の観音経 解散式」、「平成十年十月二十八日 戸田市無形民俗文化財の指定を解除される」とある。しかし、今になって資料をみながら振り返ると、最期の日といえる日は、その後も少なくとも二回もやってきている。意外に観音経の幕引きはズルズルとしていた。
 そのうちの一日は、平成十一年八月二十日の観音様のお軸のご供養である。地元新田地区の公民館で、観音経で使っていた観音様のお軸を掲げ、元保存会の会員の方々が集まって観音経に関わることをやるのは、この日が最後となった。この日集まった元保存会の会員は十四名である。
 この日、観音寺2のご住職が来られて観音様のお軸の前で、全員で心経を唱え、集った人々で会食が行われた。「食べることが供養になるから」とお爺様が言ったのはこのことだった。私とほかの調査員の方々と教育委員会の方々も加わり、ご住職を囲んで会食が始まる。思い出話に花が咲く。
 観音経は新田地区内の宿で行うほかに、午年に坂東(足立坂東東回り)、丑年を中坂東といって、花見遊山を兼ねて回っていた3。調査報告書によると、こうした遠征は、戦後は一度だけしか行われなかったようだが、それ以外にもしばしば、観音寺で観音経が行われていた。観音寺での観音経は、時に、他地区の観音経と同席することもあったようで、そうした時には代わる代わるご住職の後ろで演奏していたらしい。あの会食の時に、「新田の観音経はお経が読みやすかった」というご住職の言葉が思い出される。
 この五日後に観音経の道具一式が郷土博物館に寄贈され、ほとんどの元保存会の方々にとって、この八月のご供養が最後の日となった(はずである)。しかし、三人のお爺様方にとっての最後の日は翌年に持ち越された。

■記録に残すということ

 記録というといかにも格好がついているようにみえるが、何のために記録するかということをお爺様方に説明できなければ、記録映像の作成に協力していただくのは難しいし、そもそも何のための記録なのかよく分からない記録が出来上がる。どうせだったら、いつか観音経を復元する日がきたときに使えるような映像を作ろうと考えた。運よく、教育委員会は過去の舞台公演の映像を入手できていた。そこでお爺様方には、「全部できなくても過去の映像があるから大丈夫です。(ここで、お爺様方に安堵の表情が浮かんだ。)できるところだけやりましょう。」そして、「ここで観音経がなくなっても、もしかしたら、お孫さんやそのまたお孫さんがやりたいと言ったときに、復活できるような内容にしましょう」と、太鼓の準備からバチの持ち方にいたる当たり前のことも収録することにした。
 記録映像の収録は、年が明けて平成十二年の一月と二月に二回にわたって行われた。冬なのに撮影場所は照明がまぶしく暑い。道具一式を寄贈した博物館から太鼓やバチを持ち出し、セッティングする。そして、収録が始まる。お爺様にバチの説明をしてもらう。「お孫さんのそのまたお孫さんに語りかけるように言ってくださいね」とお爺様にダメ出しをする。カメラマンさんが好きなように撮りだしたので、「バチの動きが切れないように取ってください」とカメラマンさんたちにもダメ出しをする。当然、絵的には全然面白くない映像がとれる。今になって振り返っても、それで本当によかったのだろうかと思う。白状するがこれでいいという確信のない中で、まる二日間の収録に付き合っていただいたお爺様方も大変だったと思う。「それでもお爺様は出来る限りのことをしてくれたんだよ」とこの記録映像をみるお爺様方の子孫の方々に伝えたい。この収録でお爺様方の観音経は最後となった。太鼓もバチも博物館に戻された。
 その後、お爺様方のインタビュー映像を収録し、映像の編集、ナレーション入れ、テロップの確認作業を行い、それと並行して調査報告書の執筆をした(はずである)。こうして、VHSのビデオ一本と調査報告書一冊が「記録」として残った。しつこいようだが、本当にこれでよかったのか未だに自問している。

■振り返ると

 フィールドワーカーは自分のフィールドでの経験に引きずられ、自分の経験からつい物事を解釈してしまいがちだ。私もこの経験から、観音経がなくなった背景は特殊なことではなく、今の日本では都会・田舎に限らずどこにでもあることだと信じている。今日もどこかで、関係者の間でひっそりと最期の日を迎えた祭(祀)りがあるのではないかと、頭の片隅で思っている。
 一方、あの時から二十年が経ち、戸田市内で観音経が定期的に行われているのは新曽の下町のみとなっているようだ4。おそらく、新田地区に観音経があったことを知る人はほとんどいなくなっているだろうと思う。お爺様方はご健在であれば九十に余るお年になっているはずだ。玄孫もいるかもしれない。そのうち、その玄孫か、その子供たちがあのビデオを家の片隅から見つけてくれるだろうか。もし見つけ出されたとしても…想像はいろいろ膨らむが今の私には知りようがない。風の噂を待つのみである。


  1. 1 実際に、観音経の集まりで唱えるときは、最初にせんだつかいきょうを唱えて、全員で太鼓の伴奏で観音経を唱え、最後に心経で締めくくる。
  2. 2 戸田市新曽にある真言宗智山派の寺院。
  3. 3 観音寺は足立坂東観音霊場の十八番札所で、午年と丑年の御開帳の時に、観音経が行われていた。
  4. 4 戸田市情報ポータル「市指定文化財(新曽下町観音経)」
    https://www.city.toda.saitama.jp/site/bunkazai/kyo-syogaigaku-prop-kannonkyo.html

[参考文献]

  • 戸田市教育委員会編2002『戸田市の民俗芸能 新曽新田観音経』戸田市:戸田市教育委員会(戸田市教育委員会文化財調査報告書 第一集)
  • 戸田市教育委員会企画・制作1999『新曽新田の観音経の記録』戸田市:戸田市教育委員会、VHS、52分

HOME